ミニマリストのよさと、モノに囲まれるよさ。

ミニマリストのよさと、モノに囲まれるよさ。

世間ではミニマリストが流行っているようだ。Xを見ていると「ミニマルデザイン最高!」とか「まっさらでいいですね!!」とかいうコメントで溢れている様子。

「机の上が片付いている人は仕事ができる」とよくいうが、拡大解釈すると、家の中が片付いている人も何かしらの成果をあげそうである。この偏見とも言える話が流行っているのには、何かしらの理由がなければならない。偉人たちの部屋は片付いていたのだろうか…?

さておき、ミニマルではない部屋というのも当たり前だがある。生活感のある部屋がステキというムーブメントもある程度は許容されている気がする。

というか、1940年代頃生まれた人の家(僕の祖父母とか)でミニマリストは見たことがない。いい意味で生活感がある感じ。味といってもいいかもしれない。もしくは、子どもが生まれたことによって、残さなければならないモノが増えたから、あの形に落ち着いているのだろうか?

「エモい」という言葉が、若者(僕も含め)の口によって演奏されていて、その正体は、祖父母かその奥あたりをイメージしているだろうから、ミニマルではない部屋が許容されている証拠として提示できるだろう。

さて、僕の机を見ていただくと分かる通り、大量のものに囲まれている。部屋の写真はあまり撮りたくない(生活感がありすぎる)ので、あえて出さないが、ミニマリストではないことが一部を切り取っただけで分かっていただけると思う。

しかし、実はミニマリストだった時代もあった。ので、ミニマリストの良さというのも分かっているつもりである。もちろん、今は生活感のある部屋が好きなので「そっち派」であることは明言しなければならないが…

今回は「ミニマリスト」と「モノに囲まれる」両者のよさについて考えていきたい。何か結論が出ることはないと思うが…時間がある方は、ちょっとだけ覗いていただければと思う。

ミニマリストだった時代

ミニマリストだった時代があることは、今のデスクを見る限り、イメージがつかないだろう。僕がミニマリストだったのは、大学1〜2年生の頃だ。当時、大学の寮に住んでおり相部屋だったため、同居人への配慮が必要だった。そして、その同居人は潔癖だった。

彼の行動はこんな感じ。

  • ゴミ箱にゴミを入れてはいけない
  • 洋服は毎日洗う
  • テレビの時間が決まっている
  • 電気ケトルでスープを作ってはいけない
  • 食事は部屋では禁止
  • 夜は9時に寝る

などなど。大学生にとっては厳しいルールであり、それなら親と一緒に暮らした方が良いほどだった。

「なぜ寮に入った?」と言いたくなる気持ちをグッと堪えてしばらく生活していたが、彼の気に触る要素を完全に排除するためには、ミニマリストになるしか他なかった。

ミニマリスト具合はどのくらいかというと、部屋に置いてあった道具が100円ショップの収納ボックス1つに収まる程度。大型の家具は備え付けの2段ベッドとテレビ台、テレビしかなかった。

結局、同居人の彼は、僕がどれだけ努力してミニマリストになっても、僕という存在を抹消しないと暮らせないことを悟ったのか、耐えきれなくなったのか、半年ほどで出ていった。(出ていってからの方が仲良くなった。)

それから数ヶ月くらいは僕のお金がなかったこともあり、ミニマリスト生活をしていたと思う。合計1年ほどかな。そして翌年、寮の先輩方が皆卒業していったこともあり、4人部屋(16畳)に1人で住めるようになった。高待遇。

そこから1年ほど、やっぱり金がなかったので、家具などはほとんど買わずにミニマリスト生活を送ったと思う。そう考えると、2年ほどはミニマリストをしていた。オンボロの寮だったので、かっこいいミニマリスト!というわけではないが、ある程度は整っていた。ミニマリスト時代はこんな感じ。

モノに囲まれる時代

大学3年生頃から、高時給の深夜アルバイトをはじめ、金回りが少しよくなった。そして、国から奨学金(変換不要)を頂いていたため、毎月十数万円ほどの所得が入ってきた。その元手金を使って、現在使用しているMac miniを購入したり、ブログを開設したりしたが、それでもお金が余り、生活必需品や衣類を買い足していったと記憶している。

大学2年生の終わりまでは、ほとんど服を持っていなかった。折り畳めば無印良品の麻袋にすっぽりと入るくらいだった服たちは、みるみる増えていき、行き場を失った難民へと変化していった。ハンガーラックにかかる一軍の服たちはラッキーで、それ以外の大多数の服たちは、2段ベッドの上に畳んで設置されるという待遇を受ける。

そんなことをしているから、モノはどんどん増えていく。新世紀エヴァンゲリオン全巻やアコースティックギター、コーヒーセット、フィルムカメラ、IHヒーターなどなど、必要なものはどんどん増えていく。

その生活を2年ほど続け、大学を卒業したタイミングで現在の家に引っ越してきた。2割は捨てて残りの8割を引き継いで今の家で生活している。この家に来てからも購入したIKEAの鏡、ハンガーラック、アルミラック、カメラの防湿庫などがあるから、モノに囲まれる生活を送っている。

ミニマリストのよさ

ミニマリストのよいところは、アクセスのしやすさだろう。必要なものが現れたとき、迷う心配が一切ない。爪を切りたければ左側の引き出しを、ペンが必要なら左側の引き出しを、というふうに、嫌でも行動が1つに集約される。

もちろん、必要なモノが現れたときに「ない!」ということは多々あったが、よく考えてみると特に必要ないものばかりだったから、どんどんと行動が制限されてゆき、自分の体がミニマリスト仕様に変化していった。缶詰が食べたければ、イージーオープンふたつきのものを買えばいいし、お皿、茶碗、小皿は1枚ずつでいい。

つまり、無駄な行動をしなくなったということだ。迷いなく、必要な行動だけを行う「超合理的な生き方」ができるのは、ミニマリストのよさではないかなと思う。

モノに囲まれるよさ

モノに囲まれることで、安心する。これに尽きる。まず、やりたいことが生まれたとき、その行動を制限する必要がないことは安心につながると思う。カメラが必要なら左上の防湿庫から取り出せばいいし、本が読みたければ右上。メモを取りたければ右上のメモパッドを1枚とり、正面の引き出しからペンを取ればいい。

もちろん、ミニマリストのように行動が集約されていないから、時々迷うことはあるし、間違ってしまうこともあるが「それはそれで楽しい」と捉えれば、間違いではなくなる。

また、誰かから購入したモノがあることによる安心感もあると思う。左下にある引き出しは、メルカリで3,000円で購入したものだ。最初は新品同然ピカピカの引き出しだったが、2年ほど光を浴びた結果、少し褪色し味が出てきた。右上の本棚になっているりんご箱は、住んでいた寮が取り壊しになったとき、倉庫として用いられていた「風鳴館」から偶然発見し、頂戴したものだ。

どんなモノでも、購入するときにはストーリーが生まれる。一期一会のストーリーが貯金されてゆき「自分」というアイデンティティが作られていることに興奮するのは、僕だけだろうか?

まとめ

今回は「ミニマリスト」と「モノに囲まれる」両者のよさについて考えてみた。僕自身のことで言えば、モノに囲まれる生活をしていて、結構充実しているため、これからもモノ集めを辞めないとは思うが、こうやって過去を思い出したり思いを巡らせたりすると、ミニマリストもいいなぁとは思う。

残念ながら、ミニマリストへの道は程遠いどころか、モノに囲まれて生活しているこの状況から一変することはかなり難しいので、今生ミニマリストにはなれないと思っている。だとするならば、せめてミニマリストの友達を作ったり、Xでツアーをしたりと、どこか別のところでミニマリスト的栄養を取る必要があると思う。

反対側にいる人を知ることは、自分を知ることと紙一重だったりするから。