最近、映画鑑賞にハマっている。
ある程度仕事が片付き、余裕が生まれた夜。たった1人でレイトショーを見に行くのが至高の時間だ。
映画は1本1,800円ほどで鑑賞できる。
ちょっと前までは「高すぎるだろ」と思っていたが、そこから取れる高質な栄養素のことを考えると、1,800円を出し惜しみする方がリスクが高いと感じるほどだ。
おっと、いけない。前置きが長くなる癖があるので、今回は早く本題に移ろうと思う。
「ゴジラ×コング 新たなる帝国」は、前回鑑賞した「ゴジラ-1.0」とは全く性質の異なる作品だったので、その辺りも含めながらレビューをしていく。
ゴジラ×コング 新たなる帝国の感想
映画はざっくり、2種類に分類できると思う。
- 自分が世界観に入り込む作品(ゲームをプレイしているような感覚)
- 客観的視点で楽しむ作品(物語を上から眺めているような感覚)
これは、自分の立ち位置によっても異なる部分だと思うが、たとえば、先日試聴した「ゴジラ-1.0」は、自分にとっては「客観的視点で楽しむ作品」だった。
「戦争」をテーマとした作品かつ、リアリティがあり、、
僕は戦争の場面に立ち会ったことがないから、その世界観に入り込むことができない。
一方、「ゴジラ×コング 新たなる帝国」は「自分が世界観に入り込む作品」だったと思う。視覚効果が主観的に設定されているからで、
たとえば、地下世界から地上世界に移る際のサイケデリックな表現などは、まさに主観的。
あのシーンを客観的に示すのであれば、戦闘機を少し離れた場所から撮影し、物理世界では正当性のない歪みを表現することになると思う。
また、ゴジラとコングなど、怪獣たちのみが画面に出演している場合のパースと、人が出演する画面のパースの表現が大きく異なることも、主観的な映画になっている理由だろう。
怪獣のみが出演するシーンではコングと同様の視点(自分がコングになったようなパース)で表現され、人が出演する場合には人間の視点で物語が進んでいる。
ゴジラ-1.0では基本的に人間視点で物語が進んでいたから、この点も違うといえるかもしれない。
ここまで、感想というか分析になってしまったが、これは結構重要な部分である。
なぜなら、主観的な映画であるほど、演出の力が効いており、画面が示す通りに受け取ることになる(受け取らなければならない)からだ。
前述した「地下世界から地上世界に移る際のサイケデリックな表現」においては、主観的な場合、自分がワープするような感覚に陥ることになる。スピード感があるホールに吸い込まれている自分は、出演しているキャラクターと同様に、”吸い込まれている”のだ。
つまり、ジェットコースターに乗る隣の友人を気にする余裕はないということ。自分のことで精一杯。
一方、客観的であれば、そのジェットコースター全体を眺められるため、鑑賞者の余裕があり、思考の余裕も生まれている。
頭の良い人なら、物理計算をはじめて、時速何kmの速さで、何Gがかかっているとか考える余裕が生まれるかもしれない。
再度、映画の話に戻ると、鑑賞者である自分が主観的表現に包まれている場合は、その主観的できごとを体験することになる。それは、ここまでの人生に「映画体験」というピースが含められたようであり、擬似的にディズニーランドへ行っているようなものだ。エンターテインメントを全身全霊で味わえる。
一方で、客観的表現の鑑賞者である場合、それは本を読んでいる、もしくはインタビューをするようなもので、自分ではない他の人生を覗き見ているようなものである。
どちらが良いということではないが、一般的には「主観的=わかりやすい」し「客観的=わかりづらい」のではないかなと思う。
ただ、僕個人的には客観的な映画の方が、そこから吸収できる栄養素は高く、世間のトレンド・流れに沿わず自由な発想を育めるから良いなとは思う。
と、「ゴジラ×コング 新たなる帝国」について、得られる栄養については否定的な感想を述べたものの、さすがはアメリカの映画。視覚的な効果はピカイチである。
だから、こちらとしては、デザイン・アート的視点で映画を楽しむことができた。
特筆すべき点|ノンバーバルコミュニケーションについて
上では「客観的視点の映画ではないから、自由な発想を育みづらい」という話をしたが、実は、ある部分を蔑ろにして語っていたから、上の内容は真ではない。
というのも、この映画の最大の仕掛けである「ノンバーバルコミュニケーション」がいたる所で発揮されているからだ。
ノンバーバルコミュニケーションとは、言語を使わないコミュニケーションのこと。所作やアイコンタクトなどのことだ。
ゴジラは少し不器用なのか、ノンバーバルがあまり伝わってこないものの、
コングなどの怪獣たち、言葉を話せないイーウィス族のジア、感覚を頼りに物事に取り組むトラッパーなどは、みなノンバーバル的な世界の住人だ。
というか、そもそもこの映画では「言語」があまり重要視されていない。チャップリンの時代(無声映画)のように、全く言葉がなかったとしてもわかるように作られている。
この点「客観的視点で語られる映画」を鑑賞する際に感じる「なぜこうなっているのか」「どの文脈と結びついているのか」など、考える余地を生む映画になっていたのではと思う。
もしかすると「ゴジラ」という日本映画をアメリカ人が再解釈する際「日本人におけるノンバーバルコミュニケーションの高度さ」という部分を気にし、その点を膨らませる形で映画を作ったのかもしれない?
ただ、この辺りは難しいところなのだが、、
日本人のノンバーバルが非常に優れているため、今回の映画のノンバーバル(ジェスチャー、表情、行動)がわかりやすすぎる。考える余地があるかと言われれば、わかりやすすぎ。皆一様の感想を抱くと思うので、思考を巡らせるにはあまり向かぬ作品かもしれない。
逆に、映画を考えてしまいすぎる人にとっては、何も考えず楽しめるとは思うが。