僕がフリーのライターになった理由

僕がフリーのライターになった理由

こんにちは!

僕の本業はフリーライターです。主にWebの記事制作のお手伝いをさせていただいています。この記事を書いている現時点でかれこれ3年、ずっと文字と闘いながら生きてきました。

3年間で生み出した記事は、おそらく1,000を超えています。自分の記事がインターネットの荒波に揉まれていると考えると、少し嬉しい気持ちもありますが、それ以上に、得体の知れない恐怖を感じてしまう時すらあります。納品した記事がどこでどう活躍しているか全然分からないのに、お金をもらえるって不思議な仕事だなと思うこともあります。

でも、ずっと継続でお客さんと取引しているということは、ある程度記事たちが社会の役に立っているのでしょう。

そんなことはさておき、今日は、僕がフリーライターを志そうと思った理由について紹介しようと思います。この記事と被る部分もあるかもしれませんが、より詳しく書いているので、興味がある方はぜひ読んでみてください。

この記事は、大前提として、ここ3年間の僕を振り返るために書いています。が、もし、いまからWebライターになりたいと考えている方がこの記事に辿り着いたのなら、、

「こんな人もいるんだ」と参考にしていただけるような内容になってると思います。

僕がフリーライターを志したのは大学4年生の夏

就職活動。

僕にとっては耳にしたくもないし、字面も見たくない言葉です。

大学3年生の秋頃に就職活動をはじめ、うまくいけば大学4年生の春に内定をもらう。下手すればズルズルと、、それでも多くの方は4年生を卒業する頃に内定をもらえる。そんな感じの儀式という認識ですが、合っていますか?

お察しの通り、僕は大学3年生の頃、ほとんど就職活動をしませんでした。将来の夢や希望は簡単に叶わないんだなという、絶望感にやられていたからです。

大学2年生の僕

大学2年生の春頃までは、デザイン系の領域で就職しようと思っていました。専攻はプロダクトデザイン(モノのデザインを考える)でそのゼミにも所属していたので、あと2年間本気で頑張れば、絶対に明るい未来が見えてくると思い、結構頑張っていました。毎日学校が閉まる夜10時まで作業して、家に帰ってからも作業して、バイト代もほとんど制作費に充てていた感じです。

しかし、そんな希望も秋頃には「絶対に無理だな」という絶望に変わってしまいました。これは前も話したのですが、

  • 教授と絶望的に馬が合わなかった
  • ゼミメンバーに恵まれなかった

こういう理由で、本領を発揮できなかったからです。

まず、ゼミの教授は結構面倒くさい人で、、課題提出の1〜2日前に文句をつけてくるような人です。そんな短期間で修正なんてできっこないのに、それを直さないと単位が出ない。つまり、課題提出の前日・前々日は常に徹夜。最悪の場合には、受けている他の講義を全てサボって課題を直さなければならないこともありました。

今でも交流がある教授で、最近少し丸くなったこともあって、あの頃のことは許しました。が、当時はそういう部分が本当に嫌いでした。

また、ゼミメンバーもダメでした。僕の入っていたゼミでは、制作の成果を発表する展示を行う機会が年に4回ありました。自分の制作物を展示した、その展示会場全体の評価が単位取得を決める大きな要因となります。展示テーマに合わせて展示台のデザインを調整したり、壁面にあしらいをつけたりするというのは良い評価を受けるために必要なことですから、これはゼミ生が協力して行うということになっていました。

しかし、みんな面倒くさいんでしょうね。協力してくれるのはメンバーは14人中4人だけ。毎回お馴染みの4人ですが、バイトや課題が、、という理由で結局常駐できるのは僕ともう1人だけでした。

で、人手が足りないので、完成間際になってから「ここ綺麗じゃないよ」「これはデザインとしてどうかな?」と教授に跳ね返される。それで毎回満足のいくものが出来上がらないという体験を繰り返していました。

この体験を経て、僕はこう思いました。

たけみや
たけみや

これって、この社会の縮図なんじゃね?

面倒くさいことは誰も手伝ってくれないし、優しい人にはしわ寄せが来る。それでいて怒られるのは手をつけた人。僕が会社に入ったらこんなに苦しい思いを抱えながら生きていかなきゃいけないのか、と思うと本当に辛くなりました。

この時点で、就職はやめようと心から思いました。

大学3年生でブログをはじめた

「就職はしない」と決めたらそのあとの話は早いです。僕は心配性なので、社会のレールから逸れることにものすごく恐怖を感じていて、その恐怖心がそのまま原動力となり、何か行動しなきゃと思いました。

就職しなくても、新卒くらいは稼ぎたいと思っていたので即行動しました。当時は夜勤のアルバイトをしていましたが、それでも時給は1,600円ほど。会社員と同じ額到達するには、死に物狂いで働かなきゃいけないから違う方法がないかと。

それで出会ったのが「ブログ」というビジネスモデル。当時は「アフィリエイト」が流行っていて、ブログから商品を売る仕組みをつくれば、れっきとしたビジネスになることがわかり、早速はじめました。

結果からいえば、4年制の卒業間際のタイミングでブログを手放すまでに稼げたお金はたったの600円。それでも少し嬉しかったけど、頑張って数100記事書いたのに大赤字となりました。

お金の面では全く成果を得られませんでした。しかし、文章を書くことのつらさは少しずつなくなってった感覚があり、文章力も上がったと思います。4年生が始まる頃には大学のレポートで評価されることも増えてきたので、まぁいい勉強代だったなと割り切りました。

大学4年生の頃ブログにお問い合わせがくる

ブログを続けていると、たまにいいメッセージが来ます。

最初に届いたメッセージは忘れもしません「商品紹介をしてください」とか華やかなものではありませんが、要約すると、

「Webライターとして記事を書いてくれませんか?」というお問い合わせ。恥ずかしながら、Webライターという職業について知見がなかったため、全力で調べたところ、、

「文字を書くだけでお金が手に入る職業」だと。文字を書いて楽しい僕にとっては本当に夢のような職業だと思いました。

メールを確認するタイミングが遅れてしまい、その方とやり取りをすることはありませんでしたが、Webライターという職業が何やら天職っぽいと思った僕は、クラウドワークスなりメディアなりに片っ端から声をかけて、案件を受注することができました。

大学4年生の秋頃、僕はWebライターとして生きていくことを決意します。

たけみや
たけみや

たった一件のメールが僕の人生を大きく変えたんだなって。今考えるとそう思います。

大学卒業後について

フリーのライターを志す理由については、ここまででおおかた終わりです。馬が合わない教授との出会いによって社会を信用できなくなった僕が、何か始めなければと思いブログを始めた。お金は稼げなかったが、1本のお問い合わせからWebライターという仕事を知り、現在までこのビジネスを続けてこれているというのがここまでの話でした。

これで終わりでもいいのですが、Webライターを夢見ている方へ、最後にひとこと。

たけみや
たけみや

何か行動すれば必ず未来は変わります。

僕のこの物語は「ブログをはじめた」ところから始まりました。もちろん、最初から文章力があったわけじゃなく、今は見たくもないような記事を量産していたと思います。あんまりいいスタートではありませんでした。

でも、何かをはじめるのにベストタイミングなんてありません。

今、やるべきことをやりましょう。それはブログでもいいし、メディアに営業をかけるでもいい。

お金に縁のない僕ですら、新卒から数えて2年弱で1,000万円ほど稼げているのですから、今すぐ行動した方がいいですよ。