アトカタ(跡形)とは、辞書によると
何かあったあとに残って、そのしるしとなるもの。
Oxford Languages
らしい。
この記事でも紹介したように、
なくなってしまうことはとても嫌いで、できれば、そのままの状態を残してほしいと思う。よく通っていた映画館のあるサティ、駅前でどうどうと立っていた大きなデパート、大学時代にとてもお世話になった家賃1万1,000円の学生寮など、、すべてアトカタもなくなってしまったものたちだ。
何度も通ったから記憶には残っているが、残念なことに、当時そこを歩けた頃の空気感やどこに何が置いてあったかの答え合わせはできなくなってしまった。
アトカタがなくなるとは?
アトカタがなくなると、答え合わせができなくなる。「あそこはあんな感じやったよね」と思い出すことは可能だが、時間が経過するにつれて真実から虚構へと変化していってしまう。
あのサティの1階に位置していたゲームセンターには、いくつのメダルゲーム機があったか。そのそばにあるいつも多くの人が並んでいた店舗のマンゴークレープはいったい幾らだったか。映画館の何番スクリーンで「のび太の恐竜2006」を見たかを、思い出すことはほぼ確実にできない。
仮にできたとしても、アトカタがなくなることと、思い出すために情報を集めることが同じ時間軸上にあるこの世界において―
アトカタがなくなるスピードは速く、いつか必ず追いつけなくなる。
記録があったとしてもその空気感は取り戻せない
仮に、状況を残してくれる優秀な書記がいて、事細かに当時が記録されていたとしても、自分が感じていたあの頃の空気感を取り戻すことはできない。梅干を見ると口から唾液が分泌されるように、生理的な反射によって「あの匂い」を感じ取ることはできても、整合性がない。それは、たとえるなら、オフィスワーカーが上司に怒られてしまうほどで、たったの50%も合わない可能性が高い。
記録が残っていたとしても、空気感を取り戻せないというのは、こういうことだ。アトカタがなくなるというのは、文字通り”取り返しのつかない”こと。
ガワくらいは残してほしい
「何かがなくなることで、心が少しキュッとする」というのは、僕だけだと思っていたが、意外にもこの気持ちを理解してもらえる方は近くにいたようだ。
その方と話をして出た結論は「俺たちはごみ屋敷の人と同じかもしれない」ということ。ごみ屋敷が生まれるメカニズムは、
自分にとっての宝物が増える→すべて捨てられず部屋を圧迫する
と理解している。まさに「自分にとっての宝物」というところが肝なのだが、私たちのような「何かがなくなる」ことに悲しみを覚える人は、目にした景色を「宝物」と認識していて、それが変化することに耐久性がないのだ。
宝物が姿形を変えたら少し悲しい気持ちになるのは、人類みな共通認識だと思っているが、ストライクゾーンがたまたま広いことによって、僕たちはこんな性格になっているのだと。(生まれてからずっと一緒にいるメルちゃん人形が突然、ゲーム機になったら嬉しいのか?多分、ゲーム機がもらえるのはうれしいが、心が少しキュッとするはずだ。)
新しいことを行うためには、古いモノを壊す必要があることは理解している。地球が有限のスペースを持っていて、少し人間に分け与えてくれていることを考えると、そのスペース内で人間は生命活動を維持する必要がある。空間を有効活用するためには、不要になったモノは捨てなければならない。
しかし「何かがなくなることで、心が少しキュッとする」という心の持ち主がいることを理解してほしいなぁと。すべてを理解する必要はない。折衷案として、できればガワくらいは残してほしい。コンビニはわざわざ取り壊す必要ないし、ショッピングセンターはそのままの形で何か別の施設に変化させればいいと思う。
難しいことはわかっているのだが。
新しいことは正義?
こう考えると「新しい」ことを、手を叩いて称賛するのは難しいかもなと思っている。なぜ新しいことをするのか、それは人類が発展していくためであって、必要なことだとは思うが、資本主義社会においてはそれが過剰すぎるのではないかと。
お金を稼ぐために、新しいことをする。人材が不足して、アウトソーシングに頼る。それでも賄いきれずつぶれる。より多くの資産を持つ会社が買収する。業績悪化を懸念し、お金があるうちに新しいことをしようとする。この繰り返しだ。
10年で9割近くの会社が廃業するとはよく言われるが、これは、無理して大きく出たり、資金が溜まったことによって、驕り高ぶった会社が多すぎることを暗に示していると思う。
新しいモノにどんどん投資するよりも、今あるものを有効活用し、少しずつ利益を出していくだけでも社会は回っていく。すべての分野において、大量生産・大量消費を推進するのではなく、1つのモノをずっと大切にする(モノの寿命を延ばす)ことを目指してみないか。
そこには国民の平均収入が大きく低下している現状もかかわっている。国が動くか私たちが動くかしなければ、大量生産・大量消費の社会を変えることはできない。しかし、インボイス制度だとか、裏金だとか国は腐っているから、そちらに頼れないことを考えると、社会に住む国民たちが少しずつ消費活動のペースを減らしていかざるを得ないことがわかってくる。
ごみ屋敷を生み出してしまえば、それは社会悪だが、ごみをできる限り出さないこと。”こちら側”における折衷案を考えることで、消費のムーブメントを少し弱めつつ、うまく生き抜けるのではないか。
何が言いたいか。極端な例えだが、野菜を買うのではなく種を買うことを理解できれば、ずっと使い続けられて大量生産・大量消費のムーブメントが落ち着くということ。
例えば、包丁。昔の人は刃物店でずっと使い続けられる1丁を購入し、砥いでずっと使い続けたものだが、今はAmazonに頼めば1,000円程度で安く手にすることができる。そして、切れ味が悪くなったら新しく同じものを買うことで問題を解決できる。
確かにその方が楽かもしれないが、全然エコではないよね。
昔は「高い=いい」だったが、今は「安い=いい」と価値のすり替えが行われている。文字面を見て「おかしい」と気づいてくれる方がいれば、まだ幸いだが、このままいくと「安かろう悪かろう」という言葉は、50年後には死語になるかもしれない。安いから悪いのは当たり前。悪くなったら新しい安いモノを買えばいいのが当たり前になるのだから。
まとめ
いろんなところに脱線するのがこのブログの特徴ではあるが、、それにしても随分と方向を間違えてしまったようだ。今回の話をまとめるとこうだ。
安いモノを購入する文化が当たり前になると、消費活動が盛んになる。時代に追いつけない企業が増え、倒産、アトカタもなくなる可能性が高い。何かがなくなることで、心が少しキュッとする人は、可能な限り消費を減らし、大量生産・大量消費のムーブメントを止める歯車になろうとすると、心が落ち着くからいかがだろうかという話。
ちょっと難しい話だったが、少しでも分かっていただけた方がいればいいなと思う。わからなくても何かしら持っていってくれれば、それでいい。