1月1日令和6年能登半島地震を現地で体験して「166191」

1月1日令和6年能登半島地震を現地で体験して「166191」

1月1日、僕は、穴水町鳳珠郡にある母方の実家でお正月を迎えた。メンバーは祖父+祖母+母+僕の4人。前日は、お酒を飲みながらじいちゃんの人生の話と、家系図を作ろうという話をしていて、いつになく盛り上がった。

「そやけど、今日は楽しいなぁー」とじいちゃん。じいちゃんの昔話はあまり聞いたことがなかったけど、、思っていたよりも波瀾万丈な人生。そんなのと比べたら僕なんてすごく恵まれている。

厳しい人生を送っていても、3人の子どもを育てたのだから、僕も一生懸命やらなきゃなと思ったりした。新年はもっとがんばるぞと希望に満ち溢れていた。

しかし、そんな希望も1晩にして絶望へと変わった。

1月1日16時10分

1月1日16時10分頃、
「地震です。すぐに逃げてください。」

赤いサイレンの声に急かされて家から飛び出した。震度7の地震なんて、25年の人生で初めての経験で、こんなにも揺れるのかと。

以前、住まいの夢工房という場所で「地震」のシミュレーションを経験したことがあったが、それとは全然違う。

あれは電子的な制御がされていて、横横縦横というように、一定のリズムで地震が表現されていたと思う。

しかし、本当の地震は、どの方向から揺れが来るか想像もつかない。例えが適切かわからないが、急に地面がランニングマシンになり、横方向に押し流される感じ。しかも、マシンはさまざまな方向で配置されていて、こちらから方向を制御することはできない。

自然災害とは、ほんとうに人智の範疇を超えているのだと感じた。

高台へ

高台といっても、じいちゃん家から100メートルほど離れた場所。草木が生い茂る、半分山のような場所。

高さでいえばじいちゃん家と5メートルくらいしか違わない。それでも、モノで溢れた家の中にいるよりは、ひらけた場所にいる方が安全だと、、近隣住民の方々と一緒にそこで待機することとなった。

そこから、大きな地震が何度か続き、2時間ほど経過した頃だろうか。日はすっかり暮れて、辺りはすっかり靄のかかる世界に変化した。

靄と星空なら幻想的だが、じいちゃんの家は小山の麓。気温はだんだんと下がってきた。氷点下ほどではないが、平均2〜3度ほどの気温で、厚着していても足の裏がしばれる感じ。

だから、地震が休んでいるタイミングを見計らい、車を取りに行くことにした。車に入ってエアコンをつければ、暖をとり、体力を保持できる。

震度2の地震が続く(弱い地震が起きやすい)タイミングを狙って、ひび割れたアスファルトの上を歩く。一歩動くたび、少し揺れたか。また少し揺れたか、と緊張感が走る。

そして、100メートルの短くて長い道のりを進み、作戦は成功した。怪我1つせず車を取りに行くことができたのだ。

その勇姿を見て、近隣住民の方も続々と取りに帰った。結局、皆高台に駐車でき、暖をとりながら一夜を過ごした。

166191

余震への警戒もあり、車内で元旦を過ごすことになった。流石に躰1つだけでは持たないから、皆、隙を見て毛布や食糧、携帯の充電器などを取りに帰ることにした。地震が多い能登地域に数十年暮らしている人たち(7〜80代だらけ)だからかもしれないが、そこにいた10余名のうち、誰1人も怪我をすることはなかった。

僕たち家族も車内で一夜を過ごすのだが、10分に1度地震が起きるし、誰かが少し動くだけでも「地震だ!」と勘違いするほど敏感になっていたため、誰1人として熟睡できなかった。

僕は外に出て、オリオン座を眺めたり、ギリギリ繋がっていた(すぐにダメになった)4Gを使って、YouTubeの音声を聞いて気を紛らわせたりしていた。

166191というのは、その「気休め」で見ていた数字の1つ。自動車の距離メーターだ。

僕は最近車を買って、2月に納車予定なのだが、到着予定の車は11万キロ走っているベテラン選手。 

それを少し上回るじいちゃんの車「フィット」は、どのくらい信用できるものなのかと正直疑問だった。しかし、16万キロも走ったその車の「経験値」は、昨日聞いた、これまでの仕事を語る職人(じいちゃん)の如く、力強かった。

どれだけつけても一向に送風をやめないエアコン。その暖かさと、地震が起こってもびくともしない安定性は、まさに「安心」の2文字そのものだと言えるだろう。

そんなことを考えていると、

たけみや
たけみや

僕の買う車も結構走ってるけど、まぁ大丈夫なんじゃない?

とか想像が膨らむ。未来の楽しいことを思い浮かべながら、気休めていたのだった。

しかし、ふと思い返してみると、12時間全く数字が変わらないその距離メーターは、自然に対して何もできない無力さを物語っていたのだった。

一夜明けて

霜で凍っている雑草(寒いから車内にいてよかった)

一夜明けても地震の発生頻度は変わらなかった。1時間に3〜4度ほど地面が揺れる。しかし、明らかに震度は下がっていて、地震速報が出ているにも関わらず、揺れを感じないことも多くなってきた。

待機していた人たちは痺れを切らし、自分の家へと歩いて帰って行く。しかし、皆が安心して一時帰宅し、散らかった家具を片付けようとした瞬間、自然は牙を剥く。片付けては崩れ、片付けては崩れとイタチごっこだ。

再度発生する地震で壊れないように、皆、高い位置にある家具を下ろす。地震が起こってから2日間は再度揺れる可能性があるため、掃除は一旦後で。これまで以上の悪化を防ぐことを目標に片付けていた。

高台の下は大きく崩壊していた

地震が落ち着いてきた頃、通れるルートを確認するために周辺を歩いて探索した。日が暮れて暗かったからあまり見えていなかったが、朝日が昇るとその真の姿を表した。

坂の上に建てられていた住宅は全壊

しかも、中には人がいるかもしれないと、自衛隊の人たちが救助活動を行っていた。その周囲はまさに地獄で、電柱は倒れ、地盤は大きくずれていた。

少しそちらの方にいれば、命はなかったかもしれない。
もし、生き埋めで亡くなった方がいるのなら、この場でご冥福をお祈りしたい。

僕たちは、これから来る大地震の可能性に備えて、地域の避難所となっている穴水病院へ向かった。

穴水総合病院の状態

避難所ということで、電気は通っているし、自販機も無事動いている。だから、生命の危機を感じることはないが、、水道は機能しておらず、トイレができない。

緊急時はトイレットペーパーを詰めて対応するらしく、前にトイレをした人の「もの」がそのまま残っている。匂いもきついから、間違っても清潔な環境とはいえない。でも、車でエアコンをつけ、ガソリンがゼロになり、凍え死ぬよりはマシだから一旦病院で待機しよう。

1月2日11時16分。一旦地震は落ち着いた様子だ。でも、いつ震度7の地震が起きるかわからないから、気を張り詰めないといけない。

現在、この記事は穴水総合病院で執筆している。できる限りリアルタイムで書こうと思っていて、そう思う理由は、記憶が薄れる前に記録しておきたいからだ。

穴水総合病院にてその後①

食料は枯渇しており、当然朝・昼・夕のご飯は満足に食べれない。病院から支給されたのは朝「ポリッピー2袋」と夜「すっきりクリーミール」だけ。

しお味とスパイシー味
栄養があるドリンク?

もちろん、ありがたいと思うが、それだけでは空腹を満たせない。ありったけと詰め込んだはずの持参した食料は、どんどんなくなっていく。

あたりのお店を探しに行ったが、そもそも店舗自体が少ない田舎なのに、コンビニ1店舗すら空いていない。食糧不足はどう解決すべきなのだろう。

また、深夜に目が覚めてしまった+電波が届かないため、YouTube動画もろくに見えない。普段だったら「YouTubeの虫」のごとく、3時間以上好きなものを見漁るのだが、そんなこともできないのだ。

だから、僕はいつもと違うことをしようと、穴水総合病院に設置されている本棚を見にいく。約400冊、様々なジャンルの本が並べられていたが、今の時代、スマートフォンを使わずに本を読む人なんてごく一部。本棚には歯抜けの部分がほとんどなかった。

だから、僕は400冊の中から好きなものを選ぶことができた。読みかけである「村上春樹/アフターダーク」を選び、最後まで読み終えることにした。

このアフターダークについても少し語りたい部分があるので、こちらについては別の記事で紹介しようと思う。

読み終えた僕は、まだ眠りにつけなかったので、数ページ、「カート・ヴォネガット/ホーカス・ポーカス」を読んだ。

21ページ読んだ頃だろうか、非常に難解な内容を提示してきたその本の能力で、僕は眠りにつくことができた。(これは続きが気になるので、また読もうかな。)

病院で一夜を過ごす。3人掛けの椅子の左端に座り、眠った。途中で3人掛けを全て使ってベッドのように使おうと思ったが、別のお客さんが右端に座ったため、僕は座りながら仮眠するしかなかった。

これが病院隠居生活1日目だ。

穴水総合病院にてその後②

あまり心地よい環境ではなかったため、心身ともに参っていたのだろう。普段なら考えられないほど寝起き、寝起き、寝起きを繰り返し、最終的には6時23分に目が覚めた。前日12時頃には目を瞑っていたため、本来なら6時間半睡眠できる計算になるが、実睡眠時間は3時間ほどだと思う。

目を覚まし、地震情報を確認する。情報収集は「X」と「特務機関NERV防災アプリ」を使用して定期的にチェックをしていた。起きて頭が弱っているはずなのに、目に入った情報がスッと頭の中に入っていく。これが生存本能というやつか。

僕はてっきり寝ている間に大きな地震が発生したのだろうと思っていたが、予想に反して、震度2以上の大きな地震は起きていなかった。(穴水町において)

そして、一応周囲の状況を散歩しながら確認することにした。周囲を歩いてみたが、昨日よりも地割れが酷かったものの、重大な被害が発生した気配はなかった。

地震が起こった後は必ず凪だ。
何かが起こりそうなほどカラスがうるさかった

だから、一度祖父母宅に帰って掃除を行うことにした。特に大きな棚や家電については、僕たちが移動させないと、じいちゃん・ばあちゃんの力では動かすことは難しい。最悪それだけでも片付けてから僕たちは母宅に帰ることにした。

ちなみに、祖父母宅以外にも親戚の家が近くにあり、外れた窓の取り付けを手伝った。

コンバースのダウンジャケット、水、りんご、ポテトチップス、みかん、チョコパイ、コーヒーミル、鉄瓶

上で列挙したのは、祖父母+親戚の家を片付けたお礼としていただいた戦利品だ。

地震発生から3日目の今日、現在でも地震が完全に止まったわけではない。不安を残しながら、1月3日、僕たちはいったん母宅に帰ってきた。何か問題が発生したら、こちらから救援物資を届けに行くことになると思う。

まとめ

まだ地震が完全に収まったわけではないから、不安で仕方ない。そして、あの震度7の地震がもう一度起きるかもしれないことを考えると、眠れなくなりそうだ。

僕は震度7の地震が起きたあの日、正直、死を覚悟した。また、地震に巻き込まれ、土砂崩れの中に取り残されるシミュレーションを主観的、客観的の両方向でしてしまった。これまでは「地震」によってどんな被害があるのかという知識は知っていても、机上の空論であり、事実を知ることはできなかった。

今回、はじめて事実を知り、恐怖で足がすくむような思いをした。もし自分が巻き込まれていたらと考えるのは不謹慎だと思うが、それでもあえて、、1歩間違っただけで、自分にもその未来は降ってきたと思う。

この記事は、その体験とリアルな温度感を忘れないようにするために書いた。

もし、この記事を読んで悲惨な出来事を思い出してしまう方がいたら、本当に申し訳ございません。ただ、僕にとってのリアルをここに残しておき、このことを水に流さず、教訓にできる人が増えればいいと思い書きました。