文章にはどんな力があるだろうか?文字による表現の限界と希望。

文章にはどんな力があるだろうか?文字による表現の限界と希望。

文章の力

写真の力、アートの力、デザインの力。

それと同列にあるのが「文章の力」だと思う。

文章はどうやってとらえてもいいし、伝わったことが正義。誤読によって読者の考え方が活性化され、新たなアイデアを生み出すこともある。これこそが文章の力かなと思う。

しかし、文章でありながら、SEO対策やコンテンツマーケティングに目を向けると、そうではないことがわかる。文章に魔力が込められているのである。その本質的であるはずの文章の力をあえて抑制して、誰もがノンストレスで読み取れるような情報をただ羅列し、平均化しているだけにすぎない。

コーヒーのメリット、効能、おすすめのコーヒーといった話題はたくさん出てくるのに、コーヒーがいつ発生して、いつ頃世界に広まったのか?誰がコーヒーを最初に広めたのか?その仮説は?など、そんな話は全くと言っていいほど、目にしない。

「読者が別にその情報を知りたくないから、取り上げていない。」という屁理屈を、自信を持って言えば、みな納得してくれるだろうが、、、それすらも間違った考え方であると僕は思う。

だって、コーヒーへの解像度が低い読者が、歴史や発生年次について興味をもつのか?という話。その話を投げかけてもらえれば、興味を持って聞いてくれるだろうが、そもそも投げないのであれば、気づく経験すら生まれない。

そうして、人間は考えることを辞めて、みなが同じ知識を求めるようになってしまった。もしくは、知られてはいけないことを誰にも知らないようにと、、隠したい誰かが偏向報道をして、少しずつ情報をブラックボックスに入れているのかもしれない。

知ろうとするルートすら潰せば、「知った誰か」は、独占禁止法を無視して、億万長者になれる。そもそも誰も知らないんだから、独禁法にもならないのか。

そういうわけで、いつの日か、もしくは言葉が生まれた最初の時点から、文章の本当の力が発揮されないようになってしまった。

文字だけで表現することは限界か?いや希望がある。

文字だけで表現をすること、これに限界があるから、文章の力を蔑ろにしているのではないか?という意見があるだろう。

あの自由に読み取ってよい小説ですら、魔力を込めて執筆されていて。というか、この文章というやつをそのまま意見を伝えるツールとして使う場合には、何らかの魔力がかかっていて、文章の力が全て発揮されないわけだ。

そうなると、文章だけで表現をすることに限界を感じる。

鼻が高い。→口よりも鼻が前に出ている。→ピノキオが見て仲間だと思うくらいには。→神様が粘土遊びに勤しんでくれたおかげで。

などなど「鼻が高い」と書く場合でも、いくつか表現が見つかるはず。この中の1つを選択した時点で、一般的な読者は、その情報に脳を奪われてしまい、その光景だけを頭に思い描くことになる。

しかし、もし「神様が粘土遊び勤しんでくれたおかげで、顔の中心の突起がクオリティ高く表現されていて、友人によく褒められるわけだ。」という文章があった場合、これは、読者の偏見のコレクションによって、さまざまな形に変容する。

考えてみてほしい。あなたは友人の顔を思い浮かべるのか、架空の友人を今、頭の中で想像・創造したのか?

もし後者なら、文章の力が適切に働いているといえるだろう。

つまり、言いたいことは「文章の力は読者の能力によって決まる」ということ。これを解釈し、読者を信じて難しい言葉を使うのもありだろうし、読者は信じられないから平均化された情報を提供するのもありだろう。

現在のSEOは圧倒的後者であるが、それはつまらないよなと思う。