すごく過激なタイトルをつけたと思う。しかし、このタイトル以上に社会というのは残酷だ。もしかすると、言葉では表せないほど禍々しいものの集合体が「社会」という怪物なのかもしれない。
というのも、僕はあまり社会を知らない。なぜなら、半社会的勢力(半分だけ社会に踏み込んでいる微妙な奴)だからだ。「社会人」と言われると、そんなことないと否定したくなるほどで、多分社会の苦しさをあまりわかっていないと思う。これがフリーランスのサガと喜びだろうか。
一方、僕の周りにはちゃんと社会人をしている人が何人もいる。その人たちは本当に素晴らしいと思うが、同時に少し気の毒だと思うこともある。特に「感情派」であり、社会人である人。この人は本当に生きづらさを感じていると思う。なぜなら、感情派は自分の感情を主軸として生きているらしいのだが、それは社会では通用しないことが多く、怒られがちだから。
なぜそんなことがわかるかって?
僕の彼女が感情派であるからだ。その彼女から「生きづらい」という言質を取ったもので、多分近しい人もいるのではないかなと思った。
そして僕は、理論派(養殖かもしれないが)だ。数値や成功を追い求めることが多く、高みを目指すことにモチベーションがある。生きやすくはあり、ある程度は成功できる可能性が高いらしいが、、最近はその構造自体に疑問を持ってしまった。理論派が褒められる社会はあまり良い社会といえないと思うから。
一度疑問を持つと、その話を究明しないと済まない性格(これも理論派たる所以なのか)のため、今回は「理論派と感情派」を題材に、書いてみようと思う。
contents
理論で生きること
まず、理論で生きることについて。これは僕の得意分野で、至極わかりやすく説明できると思う。
何事も「こうだから、こうで、こう。」という筋道を立てればある程度物事をスムーズに進められるのが理論派の特徴だ。例えば、明日の朝7時に人と会う約束があると仮定する。今は昼の4時。この時、僕は今すぐに寝ることを選択する。これは、以下のような理由があるからだ。
- 僕は朝起きることが苦手かつ、寝過ぎてしまう人
- 昼の4時に寝れば、12時間寝てしまっても朝4時に起きれる
- 絶対に朝寝坊することはないし、十分な睡眠も取れる
こんな感じ。
「寝たいから寝る」とかではなく、この選択が自分の中で合理的だから、今寝るだけなのである。
ここら辺は本当に理論派たる所以だと思う。
理論で生きることは非常に楽だ。思考の型ができてしまえば、その通りに進めるだけなので、悩む心配もほとんどない。しかし、悩まない分、筋道ができてしまったら楽しみはほとんどなくなってしまう。本業の記事制作でもそうだが、一番盛り上がる瞬間は、記事の構成を作成しているときなのだ。
社会もこのような構造で生きていると思う。何かにつけてテンプレートを採用するし、「新しいこと」はこれまでの型が通用しないから嫌われる。
ちなみに、このブログは記事構成をほとんど考えずに執筆しているので、結構楽しいです!行きあたりばったり、その場で進む道を考えているため、脱線することもありますが生き生きと文章を書けています。
感情を押し殺すこと
普段の仕事では、感情を押し殺している。面倒くさいとか、ありえないとか、あぁあ怒られたとか、色々独り言を呟きたいが、そんなのは自分の中に留めて社会を生きている。
多分、僕はフリーランスだからまだいい方で、会社で働いている人の中には、どうにもならなくて頭がおかしくなっている人もいると思う。
上で紹介したが、僕は理論派だ。なので、感情を押し殺したとしても理論の人として生きていける。別に不自由さはない。しかし、感情派で生きている人にとって、感情を押し殺すことは、死を意味するくらい厳しいことではないだろうか。
感情派は、社会によって否定される。この苦しみを味わわなければならない。じゃあ、理論派になろう、そうすれば楽に生きていける。と適応できる人はいいが、適応すらできない人はどうすればいいのだろう。答えは出ない。
そもそも「感情を押し殺す=正義」とされている社会は、満員電車のようなもので、窮屈を解消するために何かしらを譲りながら生きているのだろう。そして、譲ったら最後、遠慮なくチェーンソーで刈り取られて、製材される。
「のびのびと生えている木」は使いやすいよう加工され、ホームセンターに届けられる。「人間」も同じ。
僕は感情のほうが大切だと思う。
結論、僕は感情のほうが大切だと思っていて「この現代社会は腐ってるな」とか思うこともある。しかし、どうしようもないのも事実で、これまでの僕は「感情を押し殺し、理性で生きる」ことで社会に適用してきた。
たまたま適応できたからよかった。それで生きていけるなら別にいいじゃんとかここ数年は思っていたけど、、
しかし、それって本質からずれているなと。
そう思ったのには2つの理由がある。
- 彼女と少し喧嘩
- AbemaTVの話
彼女との喧嘩についてはあまり触れたくないが、、
要は、僕が理論的なところで生きていて、彼女は感性で生きているから、すれ違いがあったという話。理論派の僕は「そんなに時間を使っていたら、いくら時間があっても足りないよ」と禁句を言ってしまった。猛省。
「感情で生きること」の大切さはこれまでもわかっていたけど、どこかちゅうぶらりんな状態で理解していた。奇しくも喧嘩が良い機会となった。
AbemaTVの話。マイブームはAbemaの聞き流しで、最近は歩きながらや料理をしながら情報を仕入れている。
その時、何をしていたかは忘れたが、いつも通りのながら聞きでたまたま耳に入ってきた「どんど焼き中止」の話題。
先日どんど焼きに行ったこともあり、割とタイムリーだったので、聴き入ってしまった。↓そういえばその時の話をブログに書いていたのでよければ。
少し話が逸れてしまった。話を元に戻そう。AbemaTVの内容を要約するとこうだ。
- どんど焼きにクレームをいれ、中止になった自治体がある
- 理由は臭い、汚い、灰が待って洗濯物にかかる、危ないなどなど
- ↑理論的に説明できる理由
- だが、昔から続く行事は理由なきものが多い
- 邪念を祓うだの、豊穣だの理論とはかけ離れているファンタジーが多い
- 理論とファンタジーをぶつけると、理論が勝ってしまう
わかりやすいように異訳している部分もありますが、おおよそはこんな感じ。詳しく知りたい方はAbemaTVをご覧ください!
この話でわかるのは以下のこと。
現代社会では、理論にファンタジー(感情)が勝つことは難しい。しかし、太古から重視されていたのは「感情」であり、それを大切にできない社会になってしまったということ。
これは、何もどんど焼きを中止にした話に限ったことではなく、現代社会もこの問題を抱えていると思う。
感情で生きている人にとって、生きづらい世の中だろう。でも、本当は感情で生きることが大切で、みなそうやって生きたいと考えているはずなのだ。そのままでいることに越したことはない。しかし、いつの間にか人間は社会に製材され、理論派になってしまう。
それは、江戸時代に虐げられた隠れキリシタンのようなものだろうか。一部の人は感情派であることを隠しながら生きていて、気づけば我を見失っている。千が「千尋」という名前を忘れてしまったようとも言えるか。
僕も昔は感情で生きていたと思う。というか、みな子どもの頃は感情で生きていた。感情派だったはずだ。しかし、社会に揉まれていつしか理論派になる。早い人は中学生くらいで理論派になってしまうのだろうか。
さっきの話とも繋がるのだが、現代社会において理論派>感情派とされているところが多いから、一度理論派に寝返ったら感情派に戻ることは非常に困難という構図だ。だから、社会全体が理論派へと変化していく。でも、理論よりも感情のほうが絶対に大事だ。ぜひ、感情で生きている方はそのままを貫き通してほしい。強くなってほしい。理論派が攻撃を仕掛けても動じることなく、自分は自分として生きてほしい。
理論派である僕から、感情派の方々へのお願い。
そして、僕も可能なら理論派から感情派へ戻りたい。戻るのが困難なことはわかっているが、自分についての理解を深めていくことで、少しずつ戻れるのではないかと思っている。このブログを書いていればいつか、感情派に戻れるかもしれない。