本日のハイライト。
あるところにダンボール箱を八箱分ぐらいのペットボトルの水が無料配布されていた。「ご自由にどうぞ」と書かれた張り紙は人通りが多かったからか、ひっきりなしに風でなびいていた。
しかし、こういうとき、誰もご自由に受け取りはしないわけである。割と余っていた。私たちは何も気にせずに貰った。
配布されている理由は手に取ってすぐわかった。7年の寿命を終えようとしているからだった。そのラベルには「保存水7年間」と印字されており、ボトルキャップの側面には2025年6月某日(15日だったか?記憶力がないもので…)と記載されていた。
それはまさに、大量のペットボトルが入れ替わる瞬間だった。何かが変わる・終わることには人一倍敏感な僕であるからして、今回の事柄も心に訴えるものがあった。
水は、何か災害が起きた時の「保険」としての役割を全うし、大衆の面前に触れることとなったのである。彼らの立場になって考えてみると、もしかするとすごく冷えたダンボールの中で6年間以上閉じ込められ、ようやく誰かの手に渡った。
これを喜んでいるかもしれないし、快適な空間から離れることを拒みたいかもしれない。僕としては前者に感じている。あれだ。 全く学がないから全然違うかもしれないが 、教科書で非常にインパクトを受けた「奴隷船」を思い出した。
まぁともかく、その窮屈な思いも終わったわけで。
私たちは1箱プラスαほどのペットボトルたちを助けた。私たちと言ったものの、僕自身はペットボトル1本しか救わなかったから、メンバーには入れてもらえないかもしれない。この船の船長は、 優しいのか卑しいのかわからない1名で、船員はその勇気に感銘を受けた1名だった。
誰かの「優しさ」はもしかすると「優しさ」ではなくて、でも「優しさ」として機能しているのかもしれないと、 僕はこんな曲がったみかたしかできない。
そんな 偏屈な考えは置いといて、また別の偏屈なことを考えたい。
賞味期限について

この水をもらい、何か心に引っかかる部分があったから、それは何だろうなと頭を掻いていると「あっ、賞味期限の線引きって非常に強引だ」という結論を出すことができた。
これ、結構自分の中では大きな出来事で、自己分析にもつながる部分かなと。僕自身は偏見や差別があまりない人だと思っているが、その理由があまり見えていなかった。もしかすると、ここにその理由があるかもしれないと思った。
解説すると、例えば、賞味期限が2025年6月15日だった場合、多くの人は6月10日頃に「ヤバイ」と感じ、6月16日に「切れた!オワッタ」と感じると思う。
しかし、よく考えてみると、段階的に彼のライフは消耗しているはずではないか?(この表現は話していて出てきたものを引用・加工)
つまり 2025年12月に飲んだ水と、2025年6月10日に飲んだ水では、確実に2025年12月に飲んだ方が「おいしい」と感じるのではないかな?と。検証不可能なので、あくまで予測になるが、感覚的にはそうだろうなと思う。
もし、違うなら、それはシュレディンガーの猫的な話で、高次元過ぎてよくわからないと思う。だから、多分感覚を信じていいと。
そうすると、1日ごとに味に違いが出ている?でも味の違いは誤差。だけど、その「誤差」で私たちは日々苦しんだり喜んだりするじゃないか!今日は辛いなーとか、今日頑張れるとか。
あれ、じゃあ、水が2025年12月に元気なくて、2025年6月10日に元気だったら?私が見ている彼と、彼自身の内面が違うことはよくあること。
ちょっと何考えてるかわからないなぁ…
つまり…何だ…
客観的には線引きされていたとしても、主観で自分の感情を大事にしたほうがいいってこと?それだ!
私たちは割とマジで社会に整形されている。適応しようとすると、なんか違うなーとか思うことがある。でも、1日8時間+αも拘束されていると、いやでも型にはまっていきますね。全人類そうだと思いますね。
そこでいつも大切にしている考え方。
「自分が恐竜だったら今何をしているか?」
恐竜は好きな時にマンモスを食べるし、寝床を作る。気を使ったりしないと思う。
大あくびをして、時に奇声を発して…
もちろん、ぼーっとしてると食べられるので、生存を維持するための戦略は立てるものの、現代人ほど無理していないと思う。
人は意外と生きていけるし、周りの人は優しいので、自分の感情を大切にしたいなーと。嫌なことは嫌というのは苦手だけど、ダメな感じを出していると、みんな助けてくれると思うので。これは、寿命間近の水を誰かが助けたのと同じように。
そのくらいの偶然、誰かが助けてくれるはず!!お腹すいてるときにピザ買ってくれる人とかいるし。