なぜ、僕は文章を書き続けるのだろう。ふと思ってしまった。何のために書いているのか、やめても誰も文句を言わないのに、自分はそこまで文章がうまくないのに。
なぜ続いてしまうのだろう。
思えば、続いたことの方が少ない人生だった。学校や塾、習い事のような決められたことをやり続けるのは得意な子だったけれど、自発的に行動したことで、ここまで固執して続けてきたことはないかもしれない。
「なぜ」がわからないことは僕にとって一番気持ち悪い。だからこうして、文章を書くようになったルーツを辿ってみようと思った。
文章で生きていこうと決心した大学3年生の夏
文章で生きていこうと決心したのは大学3年生の頃。おそらく夏のことだった。周りの人は皆就活を始めていたが、そのムーブメントがなんとも気持ち悪く感じてしまった。
「自由になれるはずなのに、どうして皆同じルートを辿ってしまうのだろう。」
「就活することに全く疑問を抱いていないのはなぜ。」
もちろん、隣人には隣人なりの意見があるはずだ。だが、僕にとっては全くわからない思想・意見だった。
それでは、自分は社会に対して何をもたらすことができるか。本当に学びたいことはなんだ。生きていく道は何がある。
この全てに当てはまるのが「文章を書く」ということだった。
文章を学べば社会に対して意見を唱えることができる。自分の気持ちが的確に表現できる。生きていける…
そんなこんなで、文章で生きていこうと決心した。
文章を学ぶことはつらかった
文章を書くための道具はすでに揃っていた。そこそこのPCはあるし、キーボード・マウスも持っている。大学図書館には文章に関する書籍がたくさん置かれていた。
しかし、書くことは本当に難しかった。自分の伝えたい抽象的なことを相手がわかる言葉に置き換えるなんて、できるはずがないのだ。
学んでも、学んでも、文章の型に当てはめれば良いと書かれている。意味はわかるが、そもそも型にどの材料を入れていけば良いのかすらわからなかった。
文章を学ぶことは難しい。「答えがないものを100%理解することは不可能ではないか」と感じた。
そもそも文章を書くのが得意ではない
そもそも、僕は文章を書くのが得意ではない。小論文のテストはいつも65点。平凡だ。正直、自分より文章が書けていない友達の方が高得点をとっていたのだから、本当に文章のセンスすらないのかもしれないと思っていた。
でも「絶対にあいつよりは書けている。採点がおかしい」と、頑なに自分の文章力を認めていた。誰も褒めてくれないのに、自分は文章ができると確信していた。
もう一度。文章を書くのは得意ではない。ただし、自分の文章に説得力のない圧倒的な自信を持っていたのだ。
高校1年生の課題
ただ、そういえば、人生で1度だけ文章を誉められたことがあった。それは、高校1年の国語の時間。
芥川龍之介「羅生門」の続きを書きなさい。今我にかえると、非常にクリエイティブな課題だったことに気づく。60代間近の先生の趣味だったのだろうか。
その課題が出た時、経験したことがないほどやる気に満ち溢れた。「誰にも負けないストーリーを作ってやる」と本気で取り組んだ。ほとんど覚えていないが、数十年ぶりに学習机の埃を雑巾で拭き、原稿用紙を用意したような気がする。部活が終わってクタクタなのに深夜、原稿用紙に食らいついていた。
当時の原稿用紙は回収され戻ってきていない。だから、どんな文章を書いたか思い出せない。だが、
「下人の行方は、誰も知らない。」しかし、ただ1人だけ下人の行方を知る者がいる。それは自分自身だ。と言う文章から始まり、登場人物である下人はキリギリスを踏み潰してしまう。その後、自らも姿を消し「本当に下人の行方は、誰も知らない」というストーリーに仕上げたはずだ。
うろ覚えなので、美談を語っていたら申し訳ない。だが、この体験が僕の執筆人生の始まりだったと思っている。
小学校3年生の担任
小学校3年生の担任は変わった先生だった。授業はほとんどパソコンを使ったアクティブラーニングを取り入れていたり(当時は珍しい)数学と理科をミックスして授業したり、しまいにはクラスで勝手にNHK合唱コンクールに出てしまうといった変な先生だ。
友達の中には「あの先生おかしい、宗教だ」と言っている人もいたが、僕はその教育方針と先生がすごく好きだった。
なぜなら、新しいものを惜しみなく提供してくれるからだ。子どもながらに、そういった試みは大人社会の中では難しいことを薄々感じていたため、純粋に「ありがたい」と言う気持ちだった。
そんな先生が毎日欠かさずやっていたことがある。それは、ブログを書くことと日刊を作ることだ。毎日ブログを更新し、さらにクラスで配るフリーペーパーのようなものを制作し、配布していた。
今考えると、本当に頭がおかしい。クラスの全ての授業を請け負いながら、ブログとフリーペーパーを制作する。そんな時間があるはずもない。
そんな先生の存在を思い出して、もしかすると大きな影響を受けているのかもしれないと、すごく感じる。歌が好きになったことやブログを執筆していること、大学で教職課程を受講したことは先生の影響かもしれない。
これが僕のルーツかもしれない。
うまくなくてもいい。自分の言葉が伝われば。
なぜ文章を執筆しているのか?その理由を考えるためにここまで文章を書いてきた。結論を言うと怒られるかもしれないが、文章を書き続けているのはなぜなのかわからない。
ただ、書くことは自分の人生を見つめ直したり、新たに発見したり、思想が変わったり「人生」を作っていったりする行為なのかもしれない。そう感じた。
少なくとも、この文章を執筆している僕は「なぜ、僕は文章を書き続けるのか。ルーツを辿ってみた。」と言うタイトルをつけた当初、自分のルーツなんてないと思っていたし、結論は「食べるために書いている」となることを予想していた。
全く違う結果が生まれてくるのは文章の魅力。そして、文章を書くことで振り返ったり、未来を想定したりできるのも魅力。
なんといっても、文章を書くのは楽しい。ただそう感じるだけだ。