言葉を仕事にすること

言葉を仕事にすること

言葉というのは、とても恐ろしいものだ。人を傷つけることもできるし、これ以上ない賞賛を与えることもできる。もしくは、自分を傷つけることもできるし、自己肯定感を高めることもできる。

2mm厚のステンレス板に熱を加え、金槌で何度も叩く。片辺を薄く伸ばし鋭く研ぎ澄ますと、皆がよく知る「包丁」になる。そんなことは誰もが知っているかもしれないが、両方の辺を薄く伸ばし、鋭く研いだもの、上下に刃がついているものを知っているだろうか?

キャンプに詳しい方なら知っていて「両刀型のナイフでしょ!」とドヤ顔でいうかもしれないが、残念。この文脈においては、両辺に刃がついたナイフというのは「言葉」そのもののことを指す。そのナイフには柄というものは一切ついていない。

そのナイフには、強く握って相手を刺すと自分にも痛みが発生する仕掛けがついている。過激に相手を刺すと、自分に同等の衝撃、もしくは相手が攻撃を防げば、それ以上の痛みが走る。攻撃を仕掛けたものは、傷を感じながら生きていかなければならない。折り合いをつけてようやく瘡蓋になることもあるが、その傷は一生消えないことがほとんどだ。

それほど怖い「言葉」というものを僕は扱っている。

「言葉の仕事をしているんですね!」

以前参加させていただいた展示会「art viewing… vol.5」で、知り合った方からの一言がきっかけで、このトピックについて考えるようになった。↓この時ですね。

<み>る会というアート団体に所属している話「art viewing... vol.5」のアーカイブ
僕がやっている他の活動については、これまであまり言及してきませんでした。「押入れの暮らし」は僕の個人的なプロジェクトであり、この空気感が他の活動と合わなかったり…
takemiyanoblog.com

その方は僕の2周りくらい年上で、アート系のディレクターをしている方だった。作品の話をして少し盛り上がったのだが、しばらくして、雑談的に聞かれた内容がある。

「仕事は何をされているんですか?」という質問。隠す必要もないから「ライターをしています。Webの記事を書いているんです。」といったところ、、

「言葉を仕事にしているんですね。」とだけ返事があった。

風貌から不思議なオーラがプンプンしていたので、その言葉を聞いた時は「変なこという人だな」としか思わなかったが、しばらくしてもその言葉が頭から抜けなかった。

なぜかというと「言葉を仕事にしているんですね。すごいですね!」でもなく、「言葉の仕事って難しそう。」でもなかったからだ。

まず「すごいですね!」という言葉。これは初めて会った人によく言われる。Webライターという仕事があまり一般的ではないから、とにかくイメージがつかず「すごい」としか言いようがないから、そう発したのだろう。

次に「難しそう」という感想だが、これは文章を書くのが苦手な人の言い草である。僕自身もライター始めたての頃は、あまり文章が得意な方ではなく、型がなければ文章を書けないような人だったから、この気持ちはよくわかる。尊敬の念と、自己否定の気持ちが混じった言葉だ。

どちらも相手を否定するために発した言葉ではないが、、残念ながら、これらの表現をされて悲しむ人もいるのが事実だ。よく考える人は、こういうふうにも捉えられると思い、少しぼかした表現を用いることが多い。

  • 言葉を仕事にするなんてすごいね。そんなの誰でもできるじゃん。
  • 難しいのは誰でもできるから価値を生み出すのが難しいんでしょ?

ここまでひどくないが、近しい表現で酷評されたことも何度かはある。

日本語は婉曲表現を好む化け物だ。遠回しに皮肉めいたことをいいたい場合に、相手のことを褒めたりもする。

話を戻すと、展示会で知り合った方は「言葉を仕事にしているんですね。」としかいわなかった。これは、ライターに対する最上級の敬意であり、冒涜するそぶりが一切ないことを意味している。その光景は、言葉を扱うもの同士が静かに戦争をしている平和を願う握手をしていることを示唆していたのだ。

なぜ「言葉」を仕事に選んだか

言葉は相手を傷つける道具でもあるが、使い方を間違えなければ、最高のプレゼントにもなりうる。この特性が好きで「言葉」を仕事にしようと思った。

話は変わるが、僕の恩師兼嫌いだった人はなんでも良いように言い換えてしまう性格の持ち主だ。そして、人に対して当たりが強くなることもある。

こう文字を見るとあまりにも最悪な人だが、その裏側には必ず愛がある。なぜ、愛を持って接しているのに、そんな嫌な性格になっているのかと考えると、、単純に「言い換え」という武器を使いたいから、振り回しているだけで、特に意味はなく、相手を攻撃してしまっていただけだと気づいた。

その証拠に、本当に困った時には不器用ながら必ず手を差し伸べてくれるし、絶対に過去のことを引きずったりしない。(今この瞬間武器を使えば気持ちが収まる。)

それは、どことなく僕の性格に似ているんだ。

何が言いたいか。言葉というのは言い換えが可能で、その言い換えによって救われる人も心を病んでしまう人もいるということ。「僕なら言葉で救ってあげられるのに」とどこから湧き出たかもわからない自信があったから、言葉の仕事を選んだのかもしれない。と思う。

言葉が軽んじられる世の中になった

言葉は何にも変えられないすごい力を持っていると思う。現代の魔法であり、科学でも解明できない力がそこにはある。にもかかわらず、言葉は軽んじられる世界になってしまった。

言葉の誤用が流行っていることや、SNSの稚拙な書きこみが増えていること。仕事のことでいえば、記事制作料はAIの流入によって一気に低下していったことも、言葉が軽んじられる世界になったことを意味しているだろう。僕も含めだが「若者の本離れ」も推進させる要因となるかもしれない。

こんなことをいうとずるいが、言葉は、人間が進化する過程で身につけた「特殊能力」なのだから、ぜひとも高評価を維持し続けてほしいと願ってやまない。

変な言葉に合わせていくのは、嫌だなぁ。(もしかすると「だなぁ」すら若者によって生まれた言葉かもしれないから、高齢者の方には窮屈な思いをさせているのかも。)

まとめ

今回は「言葉を仕事にすること」というテーマについて考えてみた。4年ほど言葉を扱う仕事をしているが、今もなお「言葉って怖いなぁ」と思うことが多々ある。それは霊的な怖さと似ているもので、自分のわからないところで怨恨が蓄積され、溢れた時に目前に出現するのではないかという恐怖である。

特に、このブログでは自分の好きなことを書いているため、制御が効かずに、読者の方々に不快な思いをさせてしまっているケースもあるかもしれない。できる限り配慮を持って執筆活動に勤しみたいが、もし迷惑をかけていることがあるのなら、言葉の持つ魔法「言い換え」によって浄化していただけると幸いである。