っぽいとは
「〜っぽいね。」昔はこれを褒め言葉だと思っていた。
「〜〜のプロとほとんど同じ能力を持っているね!」というふうに翻訳していたのだが、、言葉の勉強をしているうちに、「〜〜のプロと同じような能力を持っているけど、少し劣っている」と言われていることに気づいた。もっと突き詰めると「もう少し頑張ればプロになれるんじゃない?」と言われているようなものなんだよね。
社会は「っぽい」ことを求めている

インスタントラーメンが誕生したのは1958(昭和33)年のことらしい。日清食品が販売した今でもよく知られている「チキンラーメン」が、最初のインスタントラーメンだったそうだ。
少ししてから森永製菓から「インスタントコーヒー」が発売された。この年、「インスタント時代」という言葉が普及するようになったらしい。僕が生まれたのは1998年だから、もちろん知らない。ずいぶん前の話だ。
この情報は、一般社団法人 日本即席食品工業協会が提供している「インスタントラーメンナビ」にも記載されているから、詳しく知りたい方はこちらを読んでみてほしい。
1998年に埋められた「インスタント時代」と書かれたタイムカプセルは2000年頃に発掘されたのかもしれない。急激に「インスタントであること」が求められているように感じる。
インスタントラーメンは「ラーメンっぽい」食べ物だ。インスタントコーヒーは「コーヒーっぽい」飲み物だ。手軽で、それなりに美味しくて、本物に近い体験ができる。でも、本物ではない。
それでも僕らはインスタントを選ぶ。時間がないから。お金がないから。そこまでこだわりがないから。理由はいくらでもある。そしてその選択は、たいてい合理的だ。
問題は、この「っぽい」の感覚が、食べ物や飲み物だけでなく、人間にまで適用されるようになったことだと思う。
「っぽい」人間
「デザイナーっぽいね」「ライターっぽいね」「経営者っぽいね」——こういう言葉が、褒め言葉として流通している。SNSのプロフィールを整えて、それっぽい発信をして、それっぽいポートフォリオを並べる。見た目の説得力があれば、中身は後からついてくる。そういう空気がある。
そしてそれは、ある程度まで本当に機能する。「っぽい」ことで仕事が来て、仕事をしているうちに本物になる。そういうルートは確かに存在する。最初から完璧な人なんていないのだから、「っぽい」ところから始めるのは、むしろ健全なのかもしれない。
でも、ときどき怖くなる。「っぽい」まま走り続けて、いつの間にか自分が何者なのかわからなくなる瞬間がある。ラーメンっぽいものを食べ続けていたら、本物のラーメンの味を忘れてしまうように。
本物じゃなくてもいい、でも

僕は別に「本物になれ」と言いたいわけじゃない。本物なんてものが存在するのかも怪しい。ラーメン屋のラーメンだって、店によって全然違う。どれが「本物のラーメン」なのかなんて、誰にも決められない。
ただ、「っぽい」ことに安住しすぎると、自分の輪郭がぼやけていく感覚がある。誰かの真似をして、誰かの言葉を借りて、誰かのスタイルをなぞって——そうしているうちに、自分の中から出てくるものが何もなくなってしまう。
社会が「っぽい」ことを求めているのなら、それに応えるのは処世術として正しいのだろう。でも、それだけで終わりたくない。「っぽい」の先にある、自分だけの味を見つけたい。
インスタントラーメンを食べながら、そんなことを考えていた。